やっぱり一番は師匠だというオチ by冴丸
どうも。
先日の書道研究会で緊張と気疲れから精神的に疲弊して更新サボってました。
今年の頭からベテランばかりがいる和歌山の某書道研究会に参加している訳ですけれども、まだ何の資格も持っていないひよっこは自分だけであり…20代後半にして最年少なのでそれはもうとてもとても緊張しますし気疲れもするもんです。
それに加え、「習字を習ったことがないのにこれだけ書けるなんてすごい」という期待されているプレッシャーもあり腹のあたりがそわそわしてしまうのです。
とはいえ精進するためにも、誘っていただいた先生の顔に泥を塗るわけにもいかないので必死に練習して書いたものを持っていくわけで……
先日は正式に参加してから初めての集まる日だったので殊更緊張した次第…………。
でも思っていたより悪いことは言われなかったので一安心。
書譜の臨書については「字の一つ一つはよく観察出来てはいるが全体の流れが掴めていない」と指導いただいた。
そう、これはちょっとした自慢になるけれど自分は文字一つ一つにおける観察と真似て書くのは割と得意だと自負してる。
書道を始めたての頃からよく言われていたことで、そういうところがとても器用だそう。
なので楷書である鍾繇の臨書が性格にあっていたという訳。
今回、課題とは別に鍾繇宣示表の臨書も持って行って批評してもらった。
評判はかなり良く、「よく勉強している。雰囲気もつかめてきている。」と褒めてもらった。
そこで今回の記事としての本題は以前の記事で書いた鍾繇体のことになるのだが…
臨書について思う事
臨書とは簡単に言えば他者が書いた字を真似て書くこと。
そしてこの臨書のお手本として大抵は「古典」を参考にする。
例えば自分だと鍾繇の「宣示表」だ。
ただこの鍾繇、本人の肉筆を拓本にしたものは残っておらず王義之や後世の人が臨書したものを拓本にして、更にそれをお手本として出版されているので割と鍾繇の雰囲気から離れている。
「鍾繇」の臨書について思う事
以前の記事にて「自分の臨書と他者の臨書が違いすぎる」ことを取り上げたが、今回の研究会でさらにハッキリとした。
自分の臨書は「正しかった」のだと。
別に他者の臨書が間違っているとは思わない。
初心者が臨書するならば別に見たままの臨書で構わないと思う。
だって字の練習のために臨書はするものなので。
ただ、師範や人に書を教える立場の人が見たままの臨書するのはどうだろうか。
臨書とは「真似て書いて上達をはかる方法」
だが、上達するにはただ真似をするだけでなくその書の特徴を捉える必要があると考えている。
しかしSNSでよく見かける鍾繇の臨書の殆どが「見たまま臨書」なのだ。
前述したように鍾繇の肉筆はない。
なので「見たまま臨書」をしている人たちは鍾繇の臨書をしているわけではなく、あくまでも「鍾繇の臨書をした王義之たちの臨書」をしている。
果たしてこれで良いのだろうか。
せめて生徒を持つ書道家ならば資料を見るなりしてもっと特徴をつかんだ鍾繇体を書いてほしい。
そう考えると自分が教えを乞うている先生は資料を見せてくれて説明も丁寧にしてくれた上で更には過去に鍾繇体を使った作品で受賞した書道家の資料まで見せてくれたりと何から何まできっちりと教え勉強する機会を与えてくれるすごい人なんだなと実感した。